コラム:武家の再興を果たす―真山白河家と鬼首・本山銅山―(荒武賢一朗)

すでに本ウェブサイトでお伝えしているとおり、2025年度は大崎市文化財課ならびに岩出山古文書を読む会のみなさんと一緒に「真山白河家文書」に関する研究成果を紹介してきました(概要は下記の関連記事を御覧ください)。
真山白河家は白河結城氏の流れをくみ、伊達政宗の招きに応じて江戸時代に知行高は最大71貫600文(=716石)を与えられた仙台藩士でした。しかし、元禄5年(1692)に真山白河家2代朝次が仙台藩より改易の処分を受け、知行地の没収と改姓(白河→北)という事態に直面します。3代朝定以降は、家の再興(悲願は「白河」への復姓)を目指していくことになりました。
白河家浮上のきっかけは、仙台藩が積極的に進めていた鉱物資源の増産でした。5代直次のころから、玉造郡鳴子村鬼首(現・宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)にあった本山(もとやま)銅山の開発に着手し、これが6代景秀が家督を継承した時期に「御宝山」となりました。白河家(当時は「北」を名乗る)は、この銅山採掘を「自分入料(自己資金)」で手がけ、景秀の時代に「大盛(鉱脈を発見し、増産を実現)」を手にしたことになります。

※「御宝山」「大盛」という言葉は、白河家文書「本山銅山記録」(景秀執筆)の原本に出てきます。

白河家文書「本山銅山図」

本山銅山の産出量がどれほどだったのか、詳しい数字はわかりませんが、景秀の調べで1か月間に4480貫目(=16.8トン)と書いている時期もあります。いずれにしても、本山銅山は文化10年(1813)ごろから「御宝山」だったことは間違いなく、たくさんの人びとが働くために集まっていたようです。自己資金で「当たり」を引いた景秀は、そのまま銅山を所有してもよかったはずですが、文化11年秋に「本山銅山を仙台藩に献上する」という願書を提出し、翌年から藩の直営となりました。
結果的に優良資産に成長した本山銅山を仙台藩へ献上し、文政4年(1821)北景秀はその功労によって復姓が認められ、「白河久馬景秀」と名前を変えることができました。

現在、大崎市文化財課・岩出山古文書を読む会、そして鬼首地区のみなさんにご協力をいただき、本山銅山の実地調査や、関連資料の収集に努めています。また、続報を届けることができるよう考察を深めていきたいと思います。(部門教授)

関連URL(本ウェブサイト)
・2025年11月26日掲載
https://uehiro-tohoku.net/news/10461.html
・2025年10月23日掲載
https://uehiro-tohoku.net/news/10433.html
・2025年8月28日掲載
https://uehiro-tohoku.net/news/10313.html

別冊史の杜第12号「地域の歴史を知る:真山白河家の歴史と書写資料」
https://uehiro-tohoku.net/survey/survey01