コラム:江戸時代の手紙はどのようにして届けられたのか その2-宿継御判紙とは-(菊地優子)
2020年5月25日に同タイトルでコラムを投稿させていただいたところ、思わぬ反響をいただきました。前回は紙幅の関係もあり、内容は唐突で紋切型だったように思います。今回、改めてこのテーマで抱いた問題点と新発見を整理してみます。
まず、「江戸時代の手紙がどのようにして届けられたのか」というテーマは、2011年の東日本大震災後に大崎市図書館へ寄贈された佐藤家文書を整理した時に浮かんだ疑問でした。同家では、膨大な古文書が入っていた蔵が倒壊したということで、大崎市図書館に寄贈されたのです。総数約1万点にのぼるだろうと思われました。古文書が入った各種の入れ物のうち、ひとつの行李を開けてみると、紙紐(こより)で括った古文書の束が出てきました。埃を掃いながら内容を確認すると、江戸時代末期から明治時代初期頃の手紙類が、ざっと見て1千点は下らないだろうと思われました。この束を目の前にして、「こんなに小さく折られた手紙を、間違いなく先方に届けるためにどういう仕組みになっていたのだろう。」と疑問が沸き上がりました。
(写真1)紙紐で括られた古文書の束は約30束以上ありました。
(写真2)1束ずつ紙紐をほどいて内容を確認すると、ほとんどが手紙でした。
江戸時代に手紙の配達を担っていたのは「飛脚」というイメージがあります。しかし仙台藩領で飛脚問屋があったのは、仙台城下くらいでしょうか。城下以外の領内ではどのような手段で手紙を運んだのでしょうか。ヒントは目の前の膨大な手紙の山にありました。整理作業の途中で気になったのが、バラバラと出てくる手紙の送り状=「宿継御判紙」でした。この御判紙、既に本体の手紙から外れてしまったものが多く、差出人不明のものもあったのですが、なかには「手紙」と、「宿継御判紙」、「駅継賃銭受取札」がセットになっているものもありました。
江戸時代、幕府・諸藩は、主要五街道のみならず、地方の街道に至るまで「宿駅制度」を敷いて、整備を行いました。宿駅の重要な任務のひとつに「人馬継立」と言って、公私用の旅行者や荷物を次の宿駅まで届ける運送業務がありましたから、手紙も同じように運ばれたようです。「宿継御判紙」は、依頼主から手紙を受け取って発送する時の、いわば「荷札」のようなものでしょうか。宿駅の問屋で役人が「判」を捺したので、「御判紙」と言われたようです。
前回は、手紙の包紙に書かれた「宿継御判紙」の例を紹介しましたので、文面が分かりにくかったと思います。ここでは、独立して切り紙に書かれたいくつかの例を紹介します。
(資料①)
佐藤家ではたびたび手紙を出すので、このような通帳が用意されていました。
「天保九年正月より 宿継御判紙付御用状相出候通帳 組抜並 佐藤理蔵」
ただし、中身は1回分だけしか記入がありません。
佐藤家は、志田郡稲葉村(大崎市古川)の御百姓で、11代理蔵は天保4年(1833)に多額献金の功績により仙台藩士に取り立てられました。「組抜並」は大番組の定員枠に入らない「御番外士」を言います。
(資料②)
手紙の包み紙に添えられた一般的な「宿継御判紙」です。
「自分急用事申遣候間、新伝馬町より順駅無滞賃夫を以、右片(ママ・肩)書之所江相届候様首尾願度存
候、以上
右同人判
六月廿七日
宿々検断中 賃代弐百文添、不足之所先払」
「右同人」は差出人のこと。宛名は「宿々検断中」。急用により仙台の新伝馬町から手紙の宿継を頼むので、途中の各駅には滞りなく届け先まで運んでほしい、との依頼です。「賃夫」とあるので公用の手紙ではなく、依頼人が人足代を払っています。賃代として200文を前払いしましたが、不足が出たら「先払い」、つまり先方払いにしてくれ、とのことです。
(資料③)
一関からの投函です。
「右壱封不叶自分急用事申遣条、山の梅(山ノ目か?)・一ノ関両駅之内より以御用便之序、金盛(金
成か)町通り段々送遣、槻立(築館)町通、駅々無滞古川町よりハ右肩書之処江賃夫ヲ以早速相届ケ呉
レ候様別而頼入申候、以上
右同人判
二月
宿々検断衆中 賃銭先払 」
「賃銭先払」なので、運搬代は完全に先方払いのようです。
(大崎市教育委員会文化財課文化財調査員・岩出山古文書を読む会会長)
◎2020年5月25日掲載コラム
江戸時代の手紙はどのようにして届けられたのか ―宿継御判紙に見る近世の通信事情―(菊地優子)