コラム:江戸時代の手紙はどのようにして届けられたのか ―宿継御判紙に見る近世の通信事情―

明治4年(1871)に前島密は「身分や肩書に関係なく、誰もが平等に使える」近代郵便制度の基礎を確立し、来る2021年はそれから150年の記念の年だそうです。
古文書調査をすると、1軒の家から膨大な数の近世・近代の手紙が発見されることがあります。地方ではいつから郵便制度が普及し、それ以前はどうやって配達されたのだろう、と思いを巡らせることがありました。
写真の古文書は、玉造郡下野目村(現大崎市岩出山)の肝入をつとめた「千葉家文書」の中から、1通の手紙を包んだ包紙と、いっしょに添えられた代金引取の証明書です。下野目村には仙台龍寶寺の知行地、そして大崎八幡宮の祭田があり、このころ千葉家がその地肝入をつとめていた関係で、年貢米駄送に関しての手紙がたびたび送られてきました。包紙のおもて面には宛名(玉造郡下野目村肝入・千葉岱蔵)と差出人名(龍寶寺家司・高階秀司)が記入され、その周りにはびっしりと文字が書いてあります。うら面には「右同人判」とあり、「七北田町其他検断衆中」と書いてあります。このような書付を「宿継御判紙(しゅくつぎごはんし)」といい、包紙に直書きする場合と、別の切紙に書いて貼付したものがあります。
その文面によれば、龍寶寺に仕えていた高階秀司が国分町の検断に手紙の駅継を依頼しました。200文を前払いで預け、七北田町を通して下野目村の千葉家まで無事届けてほしいこと、代金に不足が出たら「先払い」=先方払いにしてくれるように、と頼んでいます。国分町では200文の中から七北田町までの人足代56文を引き、残りの金額を添えて次の宿駅へと手紙を送り、各宿駅も順々に代金を引いた残金と手紙を送ります。最後は最寄りの宿駅である中新田町から千葉家まで届ける仕組みです。代金は合計74文の不足になりましたが、不足分は千葉家が支払っておき、後日龍寶寺に請求を出したものと思われます。千葉家に届くまで3日かかりました。
1通の手紙に274文かかるとは庶民にはかなりお高い感がありますね。実のところ手紙の配達は何といっても「幸便」といって、「ちょうどそちらのほうに行く人がいたので手紙を頼みました」という方法が多かったようです。(菊地優子 岩出山古文書を読む会会長・大崎市教育委員会文化財課文化財調査員)

参考URL 仙台市 真言宗御室派別格本山 龍寶寺「龍寶寺の歴史」
http://ryuhouji.org/history.html