コラム:郷士のプライド ―須賀川市相楽家文書調査から―(荒武賢一朗)

令和元年(2019)から福島県須賀川市の歴史資料調査に携わっています。須賀川市立博物館・須賀川市文化交流部文化振興課のみなさんとともに、この5年間で多くの古文書に触れる機会をいただきました。詳しい実態の解明は道半ばですが、奥州道中の宿場町として有名な江戸時代の須賀川町を語る代名詞は「自治都市」で、それを主導するのは「郷士(ごうし)」だったということが広く知られています。
会津藩領(蒲生氏・加藤氏)だった須賀川町とその近隣村落は、寛永20年(1643)に上野国館林から陸奥国白河へ入部した榊原忠次の支配を受けます。それ以降、一時期を除いて白河藩領でしたが、藩側は須賀川町の行政を郷士たちに一部委任し、地元民による自治が展開しました。たとえば、商品取引の価格決定や銭相場、商人からの運上金を徴収する役割を持ち、郷士たちが管理する町益金というファンドから窮民救済や赤子養育金などの施策を実践しました。
会津藩領時代の寛永4年(1627)から郷士に任命されていた相楽(さがら)家は、鎌倉時代から続いた有力大名・結城氏の流れをくみ、初代貞次の時代から明治維新まで、その役割を担いました。貞次のころ、1人しかいなかった須賀川町の郷士は、白河藩への献金などによって新たに加わる者が増え、江戸時代後期には8名および郷士格2名の合計10名の任命が確認できます。
寛政11年(1799)に生まれた相楽家9代貞幹(さだもと)は、先祖から伝わる家の歴史と、自らの足跡を「一代之事」(須賀川市相楽家文書)に記しています。貞幹は病気がちだった父貞政に代わり、わずか7歳で家督を継承したこともあり、先祖代々に対する敬慕が強かったように見受けられます。
文政6年(1823)、貞幹(当時25歳)を含む須賀川郷士たちは白河城主の交代にともない、新旧領主への挨拶のため江戸へ向かいました。彼は、そのときの心情を「一代之事」に書いています。

【原文読み下し】右六人(貞幹以外の郷士)之内、佐藤(小三郎)へ相談申候所、差合ニ付登らず、残り者新郷士故相談致さず候 ※()は筆者補足

このとき郷士に任命されていたのは7名だったようですが、貞幹は比較的古くから郷士の立場にあった佐藤小三郎を信頼していました。しかし、佐藤は事情があって江戸行きには参加できなかったらしく、それ以外は「新郷士だから話をしない」と貞幹は述べています。また、領主(大名)との関係や、結城氏の末裔であることにもたびたび言及するところから、貞幹は郷士としての「誇り」を胸に日々を過ごし、それを子孫たちへ伝えたいという意識を持っていました。
相楽家文書の調査は始まったばかりですが、これまで知らなかった史実によって地域史研究に新たな1ページを加えたいと考えています。(あらたけ・けんいちろう)

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真)「一代之事」(須賀川市相楽家文書)の冒頭部分。江戸時代後期に作成された記録。
      相楽家元祖(初代貞次)から四代貞陳(さだのぶ)までの略歴を記す。

◇関連ウェブサイト
①須賀川市役所ホームページ「市内の古文書を調査しています」
https://www.city.sukagawa.fukushima.jp/bunka_sports/bunka_geijyutsu/hakubutsukan/1015772/1015773.html
②上廣歴史資料学研究部門「調査・研究」→「福島」
https://uehiro-tohoku.net/investigation-cat/fukushima