コラム:弘前で日朝関係史を講じて(古川祐貴)
授業で日朝関係史を教えています。専門の近世を中心として、その前提となる中世にまで話が及びます。日朝関係史を扱ううえで、対馬の存在は欠かすことができません。対馬は日本と朝鮮半島との間に位置する離島で、出身ではありませんが、私はこの島に10年以上住んだことがあります。縁あって数年前に弘前大学に移ってきました。授業で日朝関係史を扱っているのは私のまさにこうした事情によっています。
ただ受講する学生たちからしてみれば、私の経歴など関係ありません。弘前でなぜ日朝関係史?と思っている学生も少なくないことでしょう。移り住んで分かったことですが、弘前にはあまり韓国色が見られません。ハングルで溢れ返っていた対馬とは大違いです。弘前であればフランスとの関わりから日仏関係史、あるいはアイヌ・蝦夷地との関わりから日露関係史を講じるべきだったでしょう。そう考えると悲しくなってきますので、最近は弘前で日朝関係史を教えられるのは自分しかいないと思うようになりました。よく言えば発想の転換、悪く言えば開き直りです。そんな私の事情など知らないながらも学生たちは、遠い島と半島との歴史に静かに耳を傾けてくれます。
しかし、弘前と日朝関係史が全く関係がないわけではありません。江戸時代の対馬藩は豊臣秀吉による壬辰戦争(1592-98年)によって断絶した日朝関係を再開すべく、偽使を仕立て、その偽使に偽造国書を持たせていました。結果、講和が成立することとなり、日朝関係が再開します。ただ柳川調興(対馬藩重臣)は宗義成(対馬藩主)との不和から御家騒動を引き起こしてしまいます。江戸初期は全国的に御家騒動が頻発しており、幕府老中らは主従制に基づく判断を下していました。今回も藩主優位に話が進んだことから、ついに柳川調興は国書偽造の事実を幕府に暴露するのです。幕府が騒然となったのも無理ありません。将軍による直接裁判が行われます。寛永12年(1635)3月12日結審。宗義成は無罪、柳川調興は弘前に流罪となります。
弘前に流された柳川調興はその後何度か赦免の機会を得ますが、対馬藩の反発に遭い、ついに死去するまでの50年間弘前の地で過ごすこととなりました。弘前では罪人というよりは賓客の扱いで、城内に屋敷が与えられたほか、藩主や藩士らとも交流があったと言います。そのせいか墓は藩主菩提寺である長勝寺に建てられました。私が越してきて最初に訪れた場所が長勝寺であったことは言うまでもありません。こうした意外なつながりに学生たちは私が弘前の地で日朝関係史を講ずることの意味を見出すようです。「先生は現代版の柳川調興ですね!」――そう言われて嬉しいのやら、嬉しくないのやら。弘前にとって対馬や朝鮮半島が遠いことは紛れもない事実です。物理的な距離がそのまま無縁の意識につながっているのでしょう。弘前の地に少しでも日朝関係史が根付くことを信じて、私は今日も教壇に立ちます。(弘前大学人文社会科学部)
【参考文献】
田代和生「みちのくの柳川調興――弘前の調査から――」(『対馬風土記』26、1990年)
池内敏「「柳川一件」の歴史的位置」(『訳官使・通信使とその周辺』1、2020年)
池内敏「柳川調興の晩年から」(『訳官使・通信使とその周辺』5、2022年)
(写真1)宗教法人長勝寺にある柳川調興の墓(青森県弘前市、筆者撮影)