コラム:中里寺談義所はどこにあったか?(曽根原 理)

 青森県北津軽郡の中泊町は2005年に、津軽半島の内陸部の中里町と、沿岸部の小泊村の合併により生まれました。しかし間に旧市浦村(現在は五所川原市の一部)を挟み、互いに飛地のような関係にも表れている通り、中里と小泊は互いに独自の歴史を刻んできました。
 旧町名である「中里」が地名として確認できるのは、従来は近世とされていました。寛永17年(1640)に第3代津軽藩主の信義が、弟に与えた「知行目録」(国文学研究資料館所蔵)の中に「中里村」とあるのが初出とされていたのです。しかし2005年に刊行された資料集に掲載された聖教の翻刻のうち、真教寺(福島県三春市、真言宗)に伝わる『瑜祇経口伝』の奥書に、応安5年(1372)に「津軽中里寺談義所」で真言密教の経典である『瑜祇経』を書写した、と記されていることで、地名「中里」の初出は270年ほど古くなりました。
 ところで次の問題として、「この中里寺談義所はどこにあったか」が問われます。中里地域に真言宗寺院は現存せず、比定される寺を欠くため、街道筋から2kmほど山中に入った「寺屋敷跡」という地が候補と目されています。ただしその根拠は、以前に懸仏などの遺物も発掘されたから、という程度です。
 私は違和感を覚えます。本来、談義所は交通の要所に存在するもので、同じ宗教施設でも別所などとは性質を異にします。尾上寛仲(1912-84)は「談義所成立の地理的条件」として、主要街道筋に位置していること、国分寺もしくは国府所在地またはその近辺にあること、などを挙げています。先学によって明らかにされてきた、外部に開かれた知のネットワークの結節点という談義所の基本的性格を考えるなら、人里離れた山中という立地には疑問を持たざるを得ません。
 個人的には、中里城址の直下で街道や中里川にも近い弘法寺(日蓮宗)の立地が気になります。17世紀後半に同寺が建立される以前に、この地に別の宗教施設があったとしても不思議ではありません。とはいえ現時点では想像の翼を広げるのみです。(東北大学学術資源研究公開センター)

 

 

 

 

 

 

(写真1)弘法寺

 

 

 

 

 

(図1)現在の中里付近の地図

(参考文献)
 成田末五郎編『中里町誌』(中里町、1965年)
『中里町の遺跡Ⅰ』(中里町教育委員会、1992年)
『新青森市史』資料編2古代・中世(青森市、2005年)
 尾上寛仲『日本天台史の研究』(山喜房仏書林、2014年)
「「中里」のルーツを探る?」(『広報なかどまり』165、2018年)https://www.town.nakadomari.lg.jp/material/files/group/2/20181210-163538.pdf