コラム:加美町・北家文書の紹介―将軍宣下と伊達家―(荒武賢一朗)

昨年度から加美町教育委員会生涯学習課と、北家文書(江戸時代の資料を中心に約500点)の調査を実施しています。家系図によると、北家は相馬氏の一門と伝えられ、江戸時代初期に北重清(仙台移住後の初代)は伊達家の配下に移り、政宗の台所番頭を務めました。その後、重清の孫にあたる茲清は、小姓組から大出世を果たし、若年寄の役職に抜擢されています。元禄7年(1694)正月には知行高60貫文(=600石)から100貫文(=1000石)への大幅な加増を得ました【写真1】。それとほぼ同時に、加美郡城生村(現宮城県加美町)など3か村の「在所拝領(在郷屋敷・家中屋敷・山林)」が認められ、北家は当地を拠点にしていきます。
北家文書のなかで最も古いのは元和9年(1623)の作成(8月7日付)と考えられる書状です【写真2】。この手紙は、政綱という署名のみで宛先はありませんが、以下の内容が記されています。

【現代語訳】
今朝、陸奥守様(伊達政宗)より、(徳川家光の)将軍宣下のお祝いとして八月二十五日に能興行を催すので、私に招待状を下さり、大変幸せに思っています。早速に参上して御礼を申し上げるべきですが、いろいろと雑用がありますので、まずは出席のご返事のみお伝えいたします。なお、後日(陸奥守様=伊達政宗に)直接お伺いして御礼を申し上げたいと思います。

これを元和9年と推定したのは、キーワードとなる「将軍宣下」「陸奥守様」、そして「政綱」を参考にしたからです。3代将軍の徳川家光は、同年7月27日に将軍宣下(天皇から征夷大将軍に任命される儀式)を受けており、伊達政宗がそれを祝して8月に能興行を開催するのは自然な流れであてはまりました。問題は、政宗に招待される間柄の「政綱」です。池田輝政(播磨国姫路藩主)の五男に政綱(1605~1631年)という人物がおり、当時は播磨国赤穂に35000石の領地を持つ大名でした。伊達・池田両家は婚姻関係を結んでいて、政宗の嫡男忠宗(仙台藩2代藩主)の正室は池田輝政の娘・振姫(のち孝勝院)で、政綱の妹にあたります。つまり、池田政綱は非常に近い縁戚関係にある伊達政宗よりお招きを受けたのでした。
なぜ、この書状が北家に伝わったのか。まだ謎は解けていませんので、今後の課題にしたいと思います。

【参考文献】
中新田町史編さん委員会編『新編中新田町史』上巻、1997年

 

 

 

 

【写真1】元禄7年正月 仙台藩奉行から北図書茲清に宛てた申渡書
(加美町教育委員会所蔵北家文書K3-327)

 

 

 

 

 

 

【写真2】(元和9年)8月7日 政綱書状(北家文書K1-1)