コラム:地方藩の絵画制作状況を理解するために(菅沼楓)
江戸時代は小藩、大藩含め多数の藩が全国各地に存在し、藩ごとに文化や思想が爛熟した時代でした。そして、それが現在見られる地方色の土台にもなっています。絵画に関しては、藩の多くが幕府に倣い狩野派の絵師を抱えており、あくまでも江戸幕府の文化秩序の中に位置付けられていました。ですが、好まれた絵画は各藩少しずつ異なり、地域差が見られます。私はそのような地方藩の絵画制作状況と、その特色がなぜ生まれたのかという成立背景に興味を持ち、研究を進めています。
その中でも修士論文では、秋田藩8代藩主・佐竹義敦(1748-1785)の頃の絵画状況に着目しました。秋田藩においても基本的には狩野派の絵師が召し抱えられ、絵画の制作を行っていましたが、義敦の治世においては平賀源内(1728-1779)の秋田来訪をきっかけに藩士・小田野直武(1749-1780)が藩命で江戸に派遣され、西洋画法を取り入れた軸装作品を制作しました。通称「秋田蘭画」と呼ばれる作品群は、秋田藩の絵画史においても、そして江戸の絵画史においても前例を見ない特異な絵画作品であると言われます。私はこの秋田蘭画について、①作品の観察と分析、②秋田藩や源内周辺の文献調査、の二つの方法を通し、秋田と江戸それぞれで「秋田蘭画」が制作された背景を考察しました。
絵画史料は、誰もが一目で理解でき、取っ付きやすいものではありますが、その分読み取らなければならない情報が多く、さらに、それを取り囲む「人」や「環境」、「思想(精神)」と結びつけて理解するためには、絵画以外の史料にも目を配らなければいけません。地方の絵画史となると、より作品や文献に限りがあり地道な作業が必要となりますが、その分どのような歴史が見えてくるのか予想できない楽しさもあります。今後は秋田藩のみならず、各地の絵画制作状況を掘り下げ、互いに比較をしながら江戸時代の文化に迫っていきたいと思います。
軸装作品の撮影のようす