『出羽国の庶民剣士-武田軍太「武元流剣術実録」の世界-』(平川新編著)を刊行しました(平川 新)
江戸時代は武士が上に立つ身分制が厳しい社会であり、武術は武士だけの特権だと理解されてきました。これに対して平川はこれまで、関東に多数の庶民剣士が存在したことを実証的に明らかにしてきました(『開国への道』小学館)。本書で紹介した武田軍太著の「武元流剣術実録」は、出羽国にも庶民剣士が多数存在したことを証明する一級史料です。
著者である武田軍太は安永2年(1774)に生まれ、22歳のとき寛政8年(1796)に父から心地流の道場を引き継ぎました。心地流は米沢藩士を始祖とする流派ですが、他流試合もせずに形式化した同流に不満を抱いた軍太は、実践的な新たな技を開発して文化7年(1810)に心地武元流を立て、文政3年(1820)には心地流を完全に脱して、新流派の武元流を創始しました。
軍太は百姓身分ながら剣術で身を起こし、文化13年(1815)に高畠藩の剣術師範となりました。武士の門人は同藩のほか、米沢藩士と仙台藩士も確認できます。庶民の門人は、軍太の本拠である高畠周辺および天童近在村々の農民たちで、およそ500人近くを数えます。多くの村衆が希望しているとして出稽古を依頼してきた村もいくつか記されており、剣術が在村文化として広く定着していたことがわかります。武術は、武士だけの技芸ではなかったのです。
「実録」には対戦記録も記されていることから、出羽国には武田道場のほかに、いくつもの庶民道場があったことを確認できます。剣術流派間の対抗心も強く、江戸にまで数十人で出稽古に出かけた道場もありました。軍太の名声を聞いて、江戸や各地から武士や庶民の剣術修行者が来訪しました。武者修行(道場破り)に来るのは腕に自信のある剣士たちですが、門人百姓たちに負ける武士の修行者も少なくありませんでした。武術の世界では、身分制を越えた実力の世界が展開していたのです。
本史料の翻刻と紹介によって庶民剣士の実態がさらに明らかにされ、江戸時代の身分制の理解そのものに修正を迫ることが可能になるのです。
東北アジア研究センター叢書第68号
『出羽国の庶民剣士-武田軍太「武元流剣術実録」の世界-』
http://www.cneas.tohoku.ac.jp/news/2012/publication04_2.html#68
◎山形新聞で紹介されました(2021年4月9日)
Web版: https://www.yamagata-np.jp/news/202104/08/kj_2021040800184.php