コラム:山形城内で騎乗した家臣―家譜の記述から(藤方博之)

譜代大名の堀田家(正俊系)が出羽山形藩(10万石)を治めていた期間(1685~1686,1700~1746)のできごとを取りあげます。史料として利用するのは、「保受録」(堀田家文書)という家臣の家譜をまとめたものです。ある家臣が何年に家督を継ぎ、何年に○○役となり、何年には加増のうえ○○役に昇進、何年に隠居した、といった記述が延々と続きます。このように書くと無味乾燥なようで、確かにそういう面は否めないのですが、まれに武家社会を考えるヒントになるような記述に目がとまることがあります。それは順調な履歴よりも、うまくいかなかったり、処罰を受けたりしている箇所である場合が多いと思います。
井村安之丞という家臣は、禄高は150石で士分層に属し、藩主の養子・左源治のお付きを務めていました。享保9年(1724)正月、安之丞は左源治の供をして山形城から出かける際、二ノ丸のうちで騎乗していたことを「無念(不注意)至極」と藩主から厳しく咎められます。本来なら召し放たれるところ、井村家が「御譜代」であることから減禄・閉門となりました。ところが安之丞は処分が下ってから11日後、閉門中に急死してしまいます。自害も考えられますが、「急死」以外には記述がありません。結局、井村家は断絶を命じられました。
この件からは、城内の特定区域で家臣が騎乗することは主従関係の解消もあり得るほどの落度であること、代々仕えた家の者であれば酌量があること、閉門中に没すると断絶となることが窺えます。また「保受録」は編纂時(江戸時代後期)に校訂が行われていて、随所に書き込みがあります。この件に関して校訂者は、「譜代」とされる基準が享保期と編纂時では変化していることを指摘しています。このように、家譜には武家の規範や実態に迫るヒントが潜んでいるのです。もちろん分析を進めるには、他の史料や先行研究と突き合せる作業などが必要になります。
さて、井村家に話を戻すと、左源治はこの件を悔やんだのかもしれません。早くも同年4月には左源治の願いによって、藩主は安之丞の嫡子に対して出仕を命じました。ちなみに左源治とは堀田正亮のことで、享保16年(1731)に山形藩主となり、のちには幕府老中の首座となる人物です。

                山形城二ノ丸南大手門跡(山形市)