コラム:地域文人発掘ツールとしての「狂歌」

19世紀の日本には「狂歌」の作者たちが多く存在しました。伊達藩領も例外では無く、「千秋側」という全国組織を仙台を拠点として束ねた「千柳亭唐麿(一葉・綾彦)」こと仙台藩医錦織即休、その母「千錦堂百綾」を中心に「狂歌文化」が花開いています。
「狂歌」の作品作りには幅広い「知」的情報の確保が不可欠で、和・漢の古典の知識は「書物」を通じて、地理的な知識は書籍ばかりではなく「浮世絵」などをフル活用して、他の作者とは異なった意想が作品に込められました。「狂歌」というと政治・社会風刺の「落首」をイメージする向きがありますが、それは誤った教科書的な知識です。
さて、狂歌作者たちの一年の行事は、①毎月の勉強会である「月次会」での「判者」(指導免許保持者)による作品講評・添削とその成果をまとめた「月次集」の作成、②全国組織「側」が主催し刊行する「月次集」や記念作品集(「追悼集」や判者資格獲得「披露集」など)への応募、③社寺などへ作品額を奉納する「奉額」、④年始の挨拶代わりに浮世絵に自作を収めた印刷物(「狂歌摺物」)の作成・配布などからなります。
千柳亭のもとで多くの「月次集」が版行され、全国規模の諸種作品集の中には仙台領の作者たちの作品が頻出しました。また、日本国内ばかりではなく海外の美術館には「千秋側」作成の「狂歌摺物SURIMONO」が多数収蔵されています。
千秋側のメンバーが作成した豪華な押し絵の「奉額」が塩竈神社に納められたという記述が『三三時雨歌の陸奥』に見えますが、記録のはっきりしない「奉額」も数多く作成され、現在は認知されないままホコリまみれになっているケースがまま見られます。
写真は大崎市松山の羽黒神社の本殿入り口の中央に掛かっていた千秋「側」松山「連」が作成した地域の作者たちの肖像入り「奉額」です。仙台領の狂歌文化を象徴するものとして修復・保存、研究活用の道が拓けることを切望しております。(高橋章則 東北大学大学院文学研究科)

                 松山羽黒神社狂歌額(部分)