コラム:森林をめぐる地域と人びとの歴史-弘前藩領を事例に-(萱場真仁)

日本の国土の約3分の2は森林で占められています。これら森林の保護・育成に関わる制度や政策が本格的に敷かれはじめたのは、日本では江戸時代にまで遡ります。
私がメインフィールドの一つとして研究している青森県津軽地方では、同地域を支配していた弘前藩によって、津軽半島に豊富に生育するヒバやスギをはじめとする樹種を活用した材木の生産や流通が江戸時代に盛んに行われていました。
しかし、弘前藩では田畑耕作に必要となる水資源を蓄えたり、日本海から吹きつける潮風や砂の被害から田畑などを守ったりするための森林も設定されていました。同藩の財政基盤はその大部分が米穀に依存していたこともあって、こうした森林を守ることも藩にとっては重要な課題だったのです。加えて、領民たちにとっても森林は生活に必要な資材を得るための場だったため、藩は彼らによる森林利用にも絶えず目を配る必要がありました。
例えば、文化3年(1806)に領内の森林を実地見分した貴田十郎右衛門という人物は、藩の材木生産が米に次いで重要なものであることを指摘したうえで、材木となる木々を伐採する際には手当たり次第に伐るのではなく、伐り出す時機と場所をその都度考えながら伐採すべきであると主張しました。
また、津軽半島西岸に位置する七里長浜には、今なお「屏風山」という防風・防砂林が林立しています。幕末から明治時代にかけてこの「屏風山」の植林に携わった野呂武左衛門という人物は、「屏風山」を「万民耕作救助之名産」、つまり飛来する潮や砂の被害から田畑を耕作する全ての人々を救う名産物と形容し、明治時代になってからも引き続き「屏風山」の植林と保護に尽力しました。
森林を介して地域の歴史をみてみると、人びとが森林をどのように捉え、それらの保護や育成につなげていったのかを明らかにすることができます。森林が今もなお日本に豊富に残っているのは、こうした人びとの努力の賜物なのかもしれません。(徳川林政史研究所研究員)

                日本海に面して林立する「屏風山」

                  野呂武左衛門の顕彰碑