コラム:文政2年の白石城焼失 ―一條家文書の記録から―(荒武賢一朗)

私たちの部門では、白石市教育委員会と協力して「白石市一條家文書」の調査をおこなっています。戦国時代の終わりごろ、一條家初代の市兵衛は鎌先温泉の経営を開始し、現在の20代目当主まで450年余りの歴史があります。当然、一條家文書には温泉にまつわる記録が多くを占めますが、地域の歴史を伝える史料も大切に保管されていました。そのなかに「白石城焚之記」と題した冊子があります。これは、文政2年(1819)5月2日の白石城焼失について、10代目一條安臧(やすよし、当時は長男の11代目安親に家督を譲り隠居をしていた)が書きのこしたものです。
火事の起こる数日前、一條家の美奈(安臧の孫・安親の娘と思われる)という女の子が風邪を引き、安臧は白石城下の岩渕道林という医者に薬をもらいに行きました。そのついでに白石城の近くに住む親戚の一條栄蔵宅を訪問し、お茶を飲んでいたところ、大きな物音がするので外へ出てみると「御大工屋(城の修繕をする大工たちがいた建物)から出火して、いまさかんに燃えている」との話を聞いたようです。後年の聞き書きには、「大工が夫婦喧嘩をして燃え木ではたいた<注・火の付いた木でたたき合いをした>ので、その火が「かんなくず」に燃え移った」としています(今井なか談「白石城下聴書」、『仙台郷土研究』第11巻第4号、1941年4月刊)。これが大きな火災になっていく原因だったのでしょう。
お城が火事になって大変だという話は、安臧が実際に見聞したままを書いているのですが、その後の動向もわかる点が興味深いです。おそらく安臧が直接見たわけではない城内の混乱ぶりや消火活動に尽力する人々のほか、白石城の再建についても触れているので、これらは事情通の人(片倉家中の上層部か)にたずねて書き留めたと考えていいでしょう。とくに目を引くのは、白石城主・片倉宗景や殿様一家の動きです。当日、宗景は仙台藩主・伊達斉宗が病気のため仙台城に詰めていて、知らせを受けた翌日に焼失後の状況を確認し、すぐに仙台へ戻って藩の奉行たちに報告をしています。
白石城の歴史を勉強してみると、わからないことがたくさんあるのですが、江戸時代後期の様子を伝える史料は本当に貴重だと思います。

            一條家文書「白石城焚之記」(片倉宗景に関する記述)
               小関雲洋「白石城之図」(幕末維新期)