コラム:足袋を新たな産物とせよ~白河藩阿部家の産物取立申付を読む~(澤村怜薫)
文政6年(1823)、武蔵国忍藩から陸奥国白河藩へ転封してきた阿部家は、家中や下々の厳しい経済状況を改善するため、翌年12月に足袋を産物として取り立てることを命じました。数ある産業の中で、なぜ阿部家は足袋を選択したのか、その背景に迫っていきましょう。
そもそも足袋は、阿部家が184年間統治した旧領忍藩の城下町行田で盛んであった産業です。同地での足袋生産の起こりは定かではありませんが、城下町で足袋屋を商う家数が享保年間の3軒から天保年間の27軒へと増加しており、18世紀半ば以降に急激な成長を遂げた産業とみることができます。
足袋産業の発展にともない、忍藩城付領の村々においても農間余業として「足袋刺し」が広く行われるようになり、19世紀には城下町と城付領の村々の総体で足袋づくりに携わる社会構造が形成されていました。同時に、自然災害等の影響で経済的に困窮していた阿部家家臣の中には、女性たちが足袋の内職で家計を支えていた家もありました。
こうした旧領での経験をふまえ、阿部家は文政7年12月に白河藩小峰城下の本町庄屋で御用商人も務める川瀬作右衛門らに対して、町中へ達すよう命じます。その内容をみると、「此度御家中下々取続方潤助之為、於旧領女業ニ手馴候足袋、当所之産物ニ御取立被成候ニ付」とあります。つまり、阿部家は旧領(忍藩領)の女業(女性たちの内職)として手馴れていたことから、足袋を白河藩の産物へ取り立てようとしたというのです。
足袋の産物取立にあたって危惧されたのが、他地域からの商人の参入による競争の激化でした。新規産業として足袋の産物取立をめざすことは、土地の商人たちの渡世を脅かすリスクも孕んでいたようです。それゆえ、阿部家は、競り売りに規制をかけるために取捌方を担う商人を任命し、あくまで城下の商人たちの渡世を保護する姿勢を新領主として示すことによって、足袋の産物取立をめざしたのです。
(行田市郷土博物館学芸員)
『東海木曾道中懐宝図鑑』に見える「忍のさしたび名産也」の記載(行田市郷土博物館蔵)
「〔足袋当初産物として取立一件〕(部分)」(白河市歴史民俗資料館蔵/しらかわデジタルミュージアムより転載)

