コラム:木地師の「偽」文書(斎藤一)

 私は今年2月に『近世林野所有論』(岩田書院)という著書を出しましたが、その中で「木地師」について一章を割いています。木地師に関心を持った理由は、彼らがかつて全国の山(特に七合目以上)の林野を自由に使えたという伝承を持っていたからです。もし、それが真実なら領主や村による林野の「所有」と抵触するのではないかという疑問が出発点でした。
 木地師とは山の中で木を伐り、図のように横置きの轆轤を使って、椀や盆の形に仕上げて町の塗師に渡すことを生業としていた人たちで、轆轤を発明したとされる惟喬親王(政争に敗れて近江の山中に隠棲)に従った家臣に始まる由緒を保持しています。近江の小椋郷にはその「根元」とされる神社があり、それにちなんで多くの木地師が小椋姓を名乗っていました。木地師は木を伐り尽すと場所を移すのが普通で、多くは数年から10年くらいで移動していたようです。
 このことに関連し、木地師が全国の林野を自由に使えることを「保証」した文書が残っています。代表的なのは承平5年(935)の朱雀天皇綸旨とされているもので、そこには「西者櫓櫂立程、東者駒蹄之通程」(東は船の行けるところまで、西は馬の行けるところまで)諸国の山に入る権利を持つと書かれています。他にも正親町天皇、足利尊氏、丹羽長秀(織田信長家臣)などによるものもあります。これらの文書の写しは多くの木地師のご子孫宅から見つかっていますが、その理由は近江の「根元」の神社が「氏子かり」と称して定期的に全国の山中を廻った時に、木地師に文書の写しを販売したからです。このほかに惟喬親王に関する縁起などもありますが、歴史学の中では、戦前の研究者である牧野信之助が「明白な偽作文書」と断定した(その根拠は書かれていない)ためか、木地師についての歴史学的研究は停滞し、主に民俗学的なアプローチがなされてきました。
 しかし、重要なことは、山中を移動する木地師の集団がこうした文書の写しを大切に保管し、代々伝えて来たということです。そこには「貴種の子孫」というプライドもあったかも知れませんが、より実際的な効能もあった可能性は否定できないのではないでしょうか。信州の『大鹿村史』(1984)には安政年間に喜内という木地師が、山入の証文に署名することを要求する村役人に対して、そんなことをしたら「綸旨免許を取り消すことになる」と言って拒否した事例が載っています。この件は領主役所や近江の「根元」神社を巻きこむ騒ぎになった後、喜内がその地から姿を消して一件は終わりますが、彼にとって、その文書は「偽」ではなかったのです。
 この木地師は綸旨をふりかざしたものの、村方がそれを受け入れなかったために大問題になったのですが、もしかすると綸旨の効力を現地が受け入れていたケースもあったかも知れません。そうした場合にはトラブルにはならないため、訴訟文書などは残らないでしょう。江戸時代後期にはこの国のほとんどの林野は村の領域に包摂されて、木地師が自由に使用できる所は少なくなっていたと思われますが、史料が残っていないからと言って、それが皆無であったとは言い切れません。実際に、私の会った木地師のご子孫の中には、「木地師は自由に山を使えたと聞いている」と語る人もいました。歴史資料がないことは、事実が存在しなかったこととイコールではないのです。(島根史学会会員)

 

 

 

 

 

 

(図)Facebook「木地師のふるさと 東近江市」より