開催報告:大崎市初めての古文書講座 公開講演会(荒武賢一朗)
大崎市岩出山公民館では、毎年「初めての古文書講座」が開講されています。本講座は文字通り、江戸時代の歴史資料を勉強してみようという初心者・初級者の方々の「学びの場」になっています。その関連行事として公開講演会(大崎市岩出山公民館・岩出山古文書を読む会主催)が2024年3月2日(土曜)午後に大崎生涯学習センター(パレットおおさき)で開催され、荒武が「人びとの生活を潤す―近代古川の水道敷設―」と題する講演をおこないました。おもに、近年大崎市で発見された永澤家文書を素材としてお話しをいたしました。
2024年1月1日の能登半島地震発生から2か月以上が経過しましたが、いまだ被災地では多くの世帯で水道が復旧していない状況が続いています。大災害によって、水は私たちの暮らしの根幹にあることを改めて気付かされるのですが、今回の講演では明治時代前期に現在の宮城県大崎市古川で水道敷設に取り組んだ歴史を紹介いたしました。
江戸時代に自然流水などを活かした水道を建設した地域がいくつか存在しますが、日本で初めて「近代水道」を導入したのは、明治18年(1885)に建設着手、同20年に給水開始を実現した横浜でした。近代水道の条件は、①有圧送水・②濾過(ろか)浄水・③常時給水で、それに伴う技術として鋳鉄管(ちゅうてっかん)・砂濾過・ポンプの設備が揃うことにあります。
古川では横浜の2年前、明治16年(1883)に宮城県の認可を得て水道敷設工事を開始し、翌年に住民およそ5,481人(942戸、全体人口の約83%)への給水を実現しました。ただし、横浜ではイギリスから輸入した鋳鉄管を、古川では工費節減により地元で製造した土管を使用しています。そのため、当時の古川水道は先述した近代水道の条件を満たしていませんが、江戸時代の水道とは明らかに異なる新しい手法を導入したことに変わりはありません。
明治初年より古川では、生活用水を供給していた緒絶川(おだえがわ)における水質低下や、たびたび発生するコレラの流行に苦悩し、その解決策として近隣村落の水源地から引水する水道管敷設が議論されました。地域のなかでは賛成・反対のグループが激しく対立をしていましたが、明治15年に戸長に就任した永澤才吉が「コレラ流行の原因は飲料水に有り」と述べ、水道建設推進に奔走します。問題となっていた工事費には、村の予算のほか、永澤が発起人となった「水工会」という頼母子講に有志328人が出資することで大きく前進し、工部大学校土木科(東京大学工学部の前身のひとつ)の第2回卒業生で、イギリス留学から帰国したばかりの逵邑(つじむら)容吉が設計を引き受けました。
全国に先駆けて水道敷設を実施した古川の事例は、現在まで語り継がれる「地元の誇り」ですが、詳細を知る手がかりとして永澤家文書が発見されたことで、今後さらなる研究の進展が期待できます。
写真1:永澤才吉 *出典:『古川市水道百年の歩み』104ページ
写真2:永澤才吉の顕彰碑(大崎市上下水道部敷地内、2024年2月1日筆者撮影)