1月20日:山形県立博物館令和5年度博物館講座⑥開催報告(荒武賢一朗)

 山形県立博物館主催の令和5年度博物館講座(全6回)に、部門から講師を派遣しています。今年度は、第1回(2023年6月10日)に竹原万雄助教、そして第6回(2024年1月20日)に荒武賢一朗「「改革」に挑む殿様と家臣たち―江戸時代後期の新庄藩―」を開催いたしました。
 出羽国新庄城を本拠とする大名・戸沢氏は、最上氏(山形藩主)の改易によって、元和8年(1622)に常陸国松岡城(現・茨城県高萩市)から所領6万石で入部しました。戸沢氏歴代はそれから明治2年(1869)まで、領内12郷と呼ばれる地域(現在の山形県新庄市・最上郡、村山市・大石田町・河北町の一部)を支配することになります。
 今回の講座では、①常在「改革」と殿様の代替わり、②天保の飢饉と「嘉永の改革」、③家臣団の動向、という3つのテーマを取り上げました。①は、初代戸沢政盛から11代正実までのおもな功績を並べてみると、少なくとも3代正庸(まさつね)以降はいずれも「行政改革」を手掛けています。殿様が交代するたびに、改革をしなければならない背景には恒常的な財政困難と、幾度となく繰り返される凶作という問題があったのです。②では、その凶作によって年貢収納高が減少し、領内人口も次第に低下傾向を示した数字を確認しました。たとえば享保年間(1716~36)には約65,000人ほどだったのですが、天明の飢饉を経た文政年間(1818~30)にはおよそ48,000人といわれています。天保の飢饉では、9代正胤(まさつぐ)がわずかな家来をともない領内巡見を実施し、困窮する領民たちを励ましたという記録も紹介しました。③は、家臣たちの系譜を確認するとともに、天保年間(1830~44)における離籍者(領外へ移住、あるいは行方不明になる人々)の内訳を検討しました。これは、飢饉に大きく関係しますが、百姓たちの「欠落(かけおち)」「出奔」のほかに、足軽や中間(ちゅうげん)といった家臣団のなかにも同じように領外へ出ていった人々も存在したことがわかりました。
 当日は、受講者のみなさんが熱心に耳を傾けてくださり、最後の質疑応答でもたくさんの方からお声をかけていただきました。末筆ながら、講座の企画・広報・運営に尽力をされた山形県立博物館に厚く御礼を申し上げます。

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6月10日:山形県立博物館令和5年度博物館講座①開催報告(竹原万雄)
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写真:博物館講座⑥(2024年1月20日 於山形県立博物館講堂)