コラム:済生館病院創設者佐藤伊兵衛家の蔵座敷と人体模型(野口一雄)

 佐藤伊兵衛家は東村山郡役所近く、山形県天童市五日町にありました。中興初代伊兵衛は貞享年間の卒と伝えられます。広かった屋敷は、今はありません。屋敷地は分けられ家屋が建てられましたが、一棟の土蔵(元蔵座敷)が佐藤家ゆかりの建物として残っていました。65年ほど前、その土蔵が筆者の親所有になったとき、土蔵の平入面に取り付けられていた下屋を取り壊しました。そのとき偶然に、観音開き扉金具(打掛金物)に刻まれている文字が目に入りました。向かって左側に「伏見鍛冶 八兵衛作」、同右側に「大坂備後町 丼池」との文字銘がありました。伏見鍛冶は、豊臣秀吉の大坂城築城時伏見から移住した職人と思われます。備後町は、江戸時代に俵物会所がおかれた商業の中心地でしたが、伏見からの鍛冶職人が住むところでもあったのかも知れません。
 この蔵座敷がいつ造られたのかは不明です。同銘文の蔵金具は、その後確認していませんが、大坂鍛冶職人「亀右衛門」銘の蔵金具を山形市、天童市3か所の蔵座敷で確認しています。
 江戸時代、山形城下に鋳物町である銅町があり、鍛冶職人の鍛冶町がありました。その技術は高かったといわれます。なぜ、大坂鍛冶職人の手になる蔵金具が山形周辺で用いられたのか。上方からの帰路、船の安定を図るためだったのか、謎解きは続いています。
 佐藤伊兵衛家は明治6年(1873)10月、山形長谷川家に入った3代吉郎治とともに、五日町に私立済生病院を開業しました。病院は翌年山形に移ります。現在の山形市立済生館病院の前身です。時の佐藤伊兵衛家、直正は明治4年(1871)施主となり、生人形師江戸屋(神保)平五郎に依頼し「素道軒守隆(天童織田藩家老吉田大八)像」を制作しました。
 生きるがごとく作られる生人形は、済生館病院の医学教育に大きな貢献をすることになります。病院長長谷川元良は、医学教育に欠かせない高価な人体模型・キンストレーキを輸入に頼らざるを得ないなか、平五郎に「紙塑人工体」(人体模型)の制作を依頼します。平五郎の「紙塑人工体」は、明治11年(1878)、東京上野で開かれた第一回内国勧業博覧会に出品され、龍紋賞を獲得しました。『山形縣地誌提要 上』(明治11年)に、「神保氏、紙塑人体製ス 洋語キンストレッキ ト曰フ 聲譽〔名声〕ヲ淂タリ」と記されています。(天童郷土研究会)

 

 

 

 

 

(写真1)打掛金物

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真2)「紙塑人工体」(清光院蔵)