コラム:『吾妻鏡』に見える須賀川の歴史(渡辺哲也)

鎌倉時代から戦国時代まで、須賀川市を含む岩瀬郡は、二階堂氏が支配していました。昨年、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映され、「13人の合議制」のメンバーの一人に、二階堂氏の祖とされる行政(ゆきまさ)が加わっていたことから、この時期の須賀川に注目が集まりました。その様子について、同時代の資料の中では現時点で確認できませんが、『吾妻鏡』の中に、その痕跡を見ることができます。
その中の一つが『吾妻鏡』承久三年六月十八日条です。承久3年(1221)、鎌倉幕府と朝廷の間で承久の乱が起こり、京都の宇治橋で激しい戦いが行われます。この戦いの後、幕府は活躍した武士たちに恩賞を与えるため、敵を討ち取った者や負傷した者、あるいは討ち取られた者の名簿を作成しており、『吾妻鏡』にも記されています。この名簿に、「保土原三郎」という名が見えます(写真1傍線)。「保土原」は須賀川市南西部に位置する稲田地区にある地名です。保土原三郎はそこを本拠とした武士であると考えられます。
文治5年(1189)に平泉藤原氏が滅亡した後、東北地方には、二階堂氏をはじめとする御家人たちが新たに進出してきました。彼らは地元の有力な武士を「スタッフ」として取り立て、人心掌握と領地の経営の円滑化を図ったとされています。(入間田宣夫『平泉藤原氏と南奥武士団の成立』、歴史春秋社、2007年)
この指摘を踏まえると、保土原三郎は、岩瀬郡に進出した二階堂氏が「スタッフ」として採用した地元の有力な武士であり、そのつながりもあり承久の乱にも加わったものと考えられます。(須賀川市文化振興課文化財係)

 

 

 

 

 

(写真1)『吾妻鏡』承久3年6月18日条(国立公文書館デジタルアーカイブより)