コラム:徴兵逃れに見る国民意識(山内励)
ウクライナ戦争が5ヵ月に及び、国家間の戦争に多くの兵士や国民の命が犠牲になっています。そして、それを目の当たりにした世界の国々では、国防や軍事力強化を叫ぶ人々も出ています。
日本が近代的軍隊の創設をめざして徴兵令を公布したのが明治6年(1873)、その後同22年の改正を経て国民皆兵の原則が確立します。この間、免役規程に着目した徴兵逃れが各地に発生しました。置賜県伊佐沢村(現、山形県長井市)布施家史料(文教の杜ながい所蔵)によれば、明治6年、置賜県は国民成丁簿・徴兵連名簿・免役連名簿の調査を命じますが、第四大区小四区戸長布施長兵衛からは小四区10か村において、「当年廿歳ニ相成候者別冊之通六拾壱名、其内免役御規則ニ当リ候者五拾四名御座候ニ付、夫々箇條書相副此段御届申上候」と、9割近くが免役対象となる旨が報告されています。免役理由の大半は「嗣子」であり、次いで「五尺一寸未満」の身長が多く、「戸主」「独孫」、わずかに「不具」「父兄病身ニ付一家代営」が見られます。これに対して置賜県は、身長「四尺九寸以上」を徴兵連名簿に記載させることとし、実印による届出や正副戸長の検査を徹底し、名簿提出後は場合により事情を聞届けないこと、実態検査もあり得ること、身体事情については容体書を備えることなどを指示しています。しかし、それでも意図的な徴兵逃れはなくなることはなく、今度は、教導職の利用や村からの逃亡をはかるものが増えて行きます。明治8年の小四区の「成丁免役ヶ条調」には、「教導職試補拝命」10名、「逃亡尋中・行衛不知尋中」8名、「廃疾」6名、その他5名の名前が載っています。逃亡者については、逃亡届や人相書も残っています。
こうした徴兵への忌避行動は、再び戦争準備を始めた国家に対して、戊辰戦争を身近に体験した置賜県下国民が表明した戦争拒否の意思・抵抗と見ることができます。一件の殺人も戦争も、人間が本来忌避すべき同じ人殺しであることを忘れがちになる時、先人らの意思表明の歴史は、その原点に立ち返ることを教えてくれます。
明治8年「大四大区小四区成丁免役ヶ条調」表紙(布施家史料)
明治7年「逃亡御届」(布施家史料)