コラム:中国の史料に記録された対馬(程永超)

この2、3年で、対馬は「ゴースト・オブ・ツシマ」というゲームの舞台として全世界に知られるようになりました。対馬はその地理的な優位性に因み、古くから朝鮮半島との交流がさかんに行われてきました。日本にとっては、対馬が大陸との文化的・経済的交流の窓口でもあります。江戸時代になりますと、対馬宗氏は日朝間の外交・貿易を委ねられるようになりました。そのため、対馬が朝鮮半島の史書に記録されているのは何の不思議もありません。
一方、中国の史書にも古くから対馬が記録されてきました。たとえば、元寇の時のモンゴル軍による対馬侵攻に関する内容があります。その後、壬辰戦争の時、対馬府中藩初代藩主の宗義智が率いた第一軍の釜山上陸によって、朝鮮への侵攻が開始されました。そのため、対馬のことが戦況報告の一環として明の史書にもよく記録されています。
その後、清末の文人・官員である顧厚焜が書き残した文章に「対馬島考」というものがあります。光緒13年(1887)、顧厚焜は光緒帝の命令を受け、日本のみならず、アメリカ・カナダ・ペルー・キューバ・ブラジルなども訪問しました。「対馬島考」は彼が日本滞在中に書き残したものです。彼は対馬の地理情報を詳しく紹介したうえで、対馬を「アジア東部の一番険しいところ」と評価し、その軍事的な重要性を指摘しました。そして、「中国も朝鮮も日本もみな対馬を藩籬としている」と書き、対馬が東アジアにおいて藩屏の役割を果たしていると説きました。中・日・朝はそれぞれ対馬に砲台を設置し、お互いに「声援」して欧米諸国の侵略に備えるべきだとすら書きました。東北アジアにおける対馬の地理的な重要性を見抜いた慧眼は見習うべきでしょう。
このように、東北アジアにおける対馬の役割については、先人たちの指摘を参照し、さらに考察を深めるべきのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

『小方壺齋輿地叢鈔・再補編』に収録された「対馬島考」