コラム:「東北」の製鉄業の《光と影》(鈴木淳世)

人類は紀元前から鉄を採取・製錬・加工し、文明を維持・発展させてきました。日本列島の人びともまた例外ではありません。古代から砂鉄を採取・製錬し、農具・武具・貨幣・調理器具などの原材料として活用してきました。特に、「東北」の北上山地周辺地域は中国山地周辺地域とならぶ砂鉄の主要な産地であり、製鉄業が盛んに営まれていました。
北上山地周辺地域の製鉄業は鋳造業と未分化な状態が長く続き、江戸時代中期まで「銅屋」(「烔屋」)という鋳造業者なども砂鉄の製錬を行っていたところに一つの特徴があります。彼らの活動は鉄の供給には寄与しましたが、同時に様々な弊害を生み出しました。彼らの活動・弊害の一端は、領主が発給した「銅屋」営業許可証文からうかがえます。比較的早い時期の証文は、現在、八戸市博物館に所蔵されている「新鉄銅屋遣候事」です。同史料からは、延宝8年(1680)2月13日に領主の八戸南部家(表高20,000石・柳間詰)の家臣が八戸藩領陸奥国九戸郡水沢村(現岩手県九戸郡洋野町水沢)の式部・鉄肝煎孫作へ「銅屋」営業の許可を与えていたことが読み取れます。また、興味深いことに「立山・田畠」などへ悪影響を与えないことが「銅屋」営業許可の条件となっていたこともわかります。「立山」は伐採禁止の山を指し、「田畠」は田畑の作物を意味しますので、領主の側は、製錬用木炭の需要増大に伴う山林資源の減少や、砂鉄の選鉱に伴う用水の汚染(作物の減収)などを懸念していたと推察されます。実際、江戸時代中期以降は「鉄山」という大規模な製鉄場が出現し、山林資源の減少・用水の汚染などが問題視されてきますので、領主の側の懸念は杞憂ではなかったと言えます。
「東北」の製鉄業の動向・弊害に関する研究は多くありませんが、関連史料は各地に少なからず残されていますので、今後そのような史料を活用しながら「東北」の歴史的特質の一端を明らかにしていきたいと考えています。

 

 

 

 

 

 

「新鉄銅屋遣候事(延宝8年2月13日)」
八戸市博物館所蔵西町屋文書

◎参考URL
八戸市博物館
https://hachinohe-city-museum.jp/