コラム:12代リレーされた花井家文書(後藤三夫)

涌谷町に伝わる花井家文書の目録作成に携わる機会があり、所蔵者の方ともお付き合いさせていただいたことから、ここに紹介したいと思います。
花井家は涌谷伊達家の家臣で、初代は六郞兵衛長盛。系図には「水戸頼房公ノ家臣 故アリ浪人中寛文十一年伊逹宗元ノ臣トナリ涌谷ニ来ル 食禄五貫文」とあり、もとは水戸藩に仕えていました。涌谷家中内の巷説では伊達騒動で起ったとされる亀千代暗殺事件を伏し、秘かに水戸光圀(頼房三男)の子を替玉とするため第二の亀千代を送り届けた付き人が六郞兵衛であったとされます。このようなことから花井家では、近代まで大晦日には江戸から仙台まで秘密裡に若君を送り届ける苦労を追体験するために小さな干し魚「ヒッコ」と煮豆だけで新年を迎えていたといいます。
花井家文書の中でとくに注目されてきたのは、6代当主安列(1856没)が書き留めた「花井日誌」です。この日記は、天保4年(1833)から弘化4年(1847)にかけて、天候、天変地異、蚊・蝿・蝉の鳴き声など自然界の出来事だけを淡々と書き連ねた内容ですが、さまざまな研究に利用されてきました。東北大学・近藤純正名誉教授は、寒暖の記録等から天保年間の気温を再現し、最近百年の冷夏より2.8度も低かったと推定、天保飢饉の分析に活用されました(『身近な気象の科学』東京大学出版会、1987年)。また、地震学者の渡辺偉夫氏は、数多くの地震記録から天保6年(1835)の宮城沖地震の発生の実証に役立てられました。なお、「花井日誌」の内容は、涌谷こもんの会によって出版されています(涌谷こもんの会編『花井日誌』1995年)。
また、明治期の歴史学者などが、花井家文書を調査していたこともわかります。たとえば、大槻文彦氏の手紙が残されており、『伊達騒動実録・坤』(吉川弘文館、1909年)執筆に関わるものといえます。冒頭に紹介した巷説は捨て置けない情報であったのだと思います。

〔付記〕
先月、御所蔵者の方がお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りするとともに、初代六郎兵衛から12代にわたり伝えられてきた花井家文書が後世に永く伝えられていくことを願います。