コラム:感染症と自然災害―スペインインフルエンザ流行期の宮城県

コロナ禍のなか感染症の歴史が注目されています。とりわけ今から約100年前に発生したスペインインフルエンザ(スペイン風邪)は、1917年(大正8)から1920年(大正10)にかけて世界中で猛威を奮い、現在のコロナ禍と比較して度々言及されています。長期化するコロナ禍で危惧されることのひとつとして、感染症流行下に大規模自然災害が発生した場合、避難所などでの感染拡大がおこり、結果として「複合災害」とも呼べる状況が発生することです。
日本国内のスペインインフルエンザの流行は、都合三度の流行の波があったとされています。このうち第二回流行(1919年9月~20年7月)は、感染者数こそ第一回流行の1割程度でしたが、致死率(感染者のうち死亡に至った割合)が非常に高く(平均約5.3%、季節性インフルエンザの致死率は0.1%程度)、当時の人びとにとって大きな脅威となっていました。宮城県内の状況を見ると、1920年の年明け直後より感染が一気に拡大し、1920年1月中旬に2.38%であった致死率は、同年3月上旬には10.42%にまで急上昇、その後6月中旬まで約12%程度を推移します。単純な比較はできませんが、COVID-19の致死率が2~3%程度とされることを考えると、いかにこの流行が恐ろしいものだったか想像できると思います。
第二回流行期のさなかの1920年5月、宮城県内で大規模な水害が発生します。『宮城県災害史年表』では鳴瀬川・江合川の氾濫による家屋流失倒壊21棟、床上浸水547戸、床下浸水149戸などの被害が記されていますが、当時の『河北新報』を見ると、被害は上記にとどまらず、河川堤防の決壊や家屋の流失倒壊・浸水が全県におよぶ、かなり大規模な水害であったようです。この水害に関連して、1920年5月16日付の『河北新報』に、次のような記事が掲載されています。

品井沼氾濫して、黒川郡大谷地方も水害を被りたるが、その結果、罹病者(人員不明)ありとの急報に接し、警察部にては昨日調査のため地疋警察医を急派したり(「水害から罹病」)

この記事の続報、5月18日付の記事(図2)によると、5月8日の豪雨により吉田川が増水し、品井沼へ大量の水が流入した結果、堤防が決壊しました。人びとは流出した河川水により自宅が浸水するなか、辛うじて屋根の上などに避難、翌9日にようやく救助されました。救助された人びとは避難所とされた大谷村(現大郷町)の珠光寺に収容されましたが、避難所で発生した「疾病」により、重症者5名・軽症者24名が発生しました。
この時発生した「疾病」が当時流行していたスペインインフルエンザであったのか、また避難所で他にも罹患者が発生して蔓延して「複合災害」の状況にあったのか、残念ながら現在のところ史料上の制約により明らかにはできていません。しかしながら、先が見えないコロナ禍のなかで、過去の人びとの経験を振り返ることにより、この先の私たちにとってのヒントが隠れているのかもしれません。
(川内淳史 東北大学災害科学国際研究所)

 

 

 

 

 

 

【図1】1920年(大正9)1月に内務省衛生局によって各府県に配布されたインフルエンザ予防標語(内務省衛生局編『流行性感冒』1922年、131頁)

 

 

 

 

 

 

 

【図2】黒川郡大谷村(現大郷町)の避難所での「疾病」の発生を伝える記事(『河北新報』1920年5月18日付「着のみ着のまゝ濡れ鼠の惨憺 二百六十名救助されしも着替も夜具も無く 遂に疾病者を生ず」)