コラム:仙台藩の兌換紙幣と近江商人(ジョン・ダミコ)

安政3年(1856)、仙台藩では新たな貨幣が誕生しました。「改正手形」と呼ばれ、近江商人の中井源左衛門家により発行された兌換紙幣(いわゆる藩札)でした。中井家は、明和6年(1769)に中井新三郎という名義で大町一丁目にて仙台店を開き、それ以降、全国に広がる出店のネットワークの枢軸となりました。安政2年に藩の「御財用方御用達」に命じられた中井新三郎は、その翌年に「御手形快復御仕法」を提案しました。19世紀初期から流通していた、大坂商人で以前に仙台藩の蔵元を勤めていた升屋平右衛門の預り手形の代わりに自分が札元となる「改正手形」の発行を進言するものでした(注1)。
この新たな紙幣発行の目的は、藩財政の立て直し、そして領民(とくに「小前」百姓層)の少額貨幣の需要を満たすことの2つがありました。当時、流通していた手形は額面価格が4分の1まで下落し、さらに飢饉の影響により幕府が発行した硬貨(=「正金」)は領内からほとんど姿を消していたようです。また、藩財政の主柱であった買米制度という、百姓の余剰米を買い集め、江戸へ輸出する仕組みを維持するために、正金または紙幣のどちらかを調達しなければなりませんでした。そこで、中井家は人脈を活かし、店の仕入れ商品・道具などをすべて抵当に入れる代わりに上方からの貸付を確保しました。その貸付金をもとに1分札(1/4両)を発行、のち2朱(1/8両)や1朱(1/16両)なども出し、発行総高は安政7年まで721,614両にも及びました。
しかし、様々な理由によりこの紙幣の相場価格も前の升屋札と同様に下落してしまいました。その要因の一つは百姓たちの反応でした。中井家は「下直下民小昧手頃」の貨幣を作ろうとしたのですが、結局のところ百姓たちは20年以上流通していた、もう兌換できなくなった「無引替なる古手形ヲ望ミ、眼前引替遣候改正ヲ嫌」ったようで、新しい改正手形を額面価格のままで受け取ることに対して懐疑の念を抱いたようです(注2)。貨幣を維持するには、権力側や商人資本により一方的な強制力では不十分で、下からの信用も必要不可欠な要素だったことが窺われます。(イェール大学大学院博士課程)

(注1)「仙臺御財用方諸事記」1番(中井源左衛門家文書3689、滋賀大学経済学部附属史料館蔵)
(注2)「仙臺御財用方諸事記」2番(中井源左衛門家文書3710、同館所蔵)

 

 

 

 

 

 

 

改正手形(表・裏) 二朱札 一切札 〔筆者個人蔵〕
 贋造紙幣でないことを保証するために、裏に西陣織の布を貼っています