佐賀藩のライバル?(伊藤昭弘)

 3月4日の歴史資料学研究会にて、文政期の佐賀藩における御家騒動(家格の上昇をめぐり佐賀9代藩主鍋島斉直と重臣たちが対立し、斉直が隠居するに至った)について報告しました。そのさい、佐賀藩鍋島家が家格においていわば「ライバル視」(例えば盛岡藩南部家と、弘前藩津軽家の長年の対立関係のような)していた大名はいないのか、という質問がありました。私は今まで、佐賀藩関係史料や過去の研究において、そうした記述・指摘をみかけたことがなかったため、そのような相手はいなかったと回答しました。
 ところがつい先日調査した「心願書控」(東京大学法学部研究室図書室・法制史資料室所蔵。本史料については、山本英貴氏「「大御所時代」の幕藩関係」『日本近世史を見通す3 体制危機の到来』吉川弘文館、2024年1月を参考にしました)に、斉直および7代藩主重茂(斉直の伯父)の継室・円諦院(御三卿のひとつ田安家初代宗武の娘)が田安家へ提出した、家格上昇を求める願書が収録されていました。
 願書では、福岡藩黒田家と同格の処遇を求めていました。佐賀藩と福岡藩は、寛永18年(1641)以来隔年で、海外への窓口だった幕領長崎の警備を担っていました。家格において鍋島家は黒田家より低い扱いをうけており、同じ軍役をつとめているのにおかしい、という主張でした。佐賀藩鍋島家は、福岡藩黒田家をライバルと考えていた、といえそうです。ただ、こうした記述は佐賀藩関係史料でみたことがないため、佐賀藩家中全体の認識だったかは、検討が必要でしょう。また、斉直は長崎警備を辞めたいと考えていたのですが、報告ではその理由を十分に説明できませんでした。ひょっとすると、福岡藩黒田家と同格に遇してもらえないなら、長崎警備をやる意味が無いと考えたのかもしれません。(佐賀大学地域学歴史文化研究センター教授)

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真)佐賀藩と福岡藩が隔年で警備した長崎の番所のひとつ西泊番所(佐賀県立図書館所蔵「西泊御番所之図」)