コラム:藩校養賢堂の音楽教育(J.F.モリス)

最盛期の仙台藩校養賢堂には、12の学科があったとされます。漢学、国学、書学、算法(和算)、礼方、兵学、蘭学、洋学(ロシア語、英語)、剣術、槍術、柔術、楽でした(大藤修『仙台藩の学問と教育―江戸時代における仙台の学都化』国宝大崎八幡宮仙台・江戸学叢書13、2009年、33頁)。漢学・国学は、当時の教養人としての武士の基礎的教養、書学・算法・礼方・兵学は役人・軍事指揮官として必須の実技、蘭学・洋学は最先端の科学技術などの習得に必須、剣術以下は戦闘員としての武士たるものの必須の科目として理解できます。この一覧には含まれませんが医学校もまたべつにあり、宝暦・天明の大飢饉後の疫病対策のなかで地域社会の課題に応える必要性から生まれたものとして理解できます。しかし、最後の「楽(がく)」(音楽)だけは、上記のいずれの範疇にはあてはまりません。たしかに、養賢堂は、全国の藩校にあって、公立学校としてはじめて西洋医学を正規科目として取り入れたことや、武士から商人の技として見下される算法を勘定方役人の養成に必要としてとりいれたように、既成概念や先入観に囚われない自由な発想に基づく教育を行なうという伝統はありました。しかしながら、それにしても「楽」の存在は特異という他ありません。
結論からいいますと、養賢堂に楽が正規科目として設置されたのは、最後の大名となった慶邦個人の格別の思い入れによるものでした。設置の事情は、「芝多対馬請書」(以下「請書」と略す)からその一部が読み取れます(『伊達家文書之十』三四八二号十月二十二、540~541頁)。
「請書」によると慶邦が芝多対馬に養賢堂で音楽教育の導入を要望したことを請け、芝多が養賢堂学頭たちに諮問したところ、学頭は「よろしい御思し召しである」と回答し、早速音楽教育を開始するための準備に入りたいと答えました。中国の周朝の「聖王」文王の故事を引いて、芝多は天下の「鰥寡孤独(かんかこどく)」な窮民を救済すれば「士及び農工商」への御恵みとなるとしながら、蝦夷地経営をはじめとする「万端の御用途」が重なっていて藩が「不如意」(財政逼迫)になっているので、すベての窮民を救済できるだけの財政的余裕はありません。そう考えた場合、御承知のように「音学は瞽者(こしゃ、盲人)も預(あず)かり候」ものであるので、最初は、「諸士之不具(ふぐ)様之者及び病身無拠(よんどころなく)養子等ニ不参者、又者(または)右様ニ而早隠居(はやいんきょ)等之者」と対象を限定しておけば財源を工夫できるであろうと回答しました。まず教師の人選を済ましてから担当者から慶邦に計画書を提出して、慶邦に内容を検討してもらって仰せ付けてほしいと、命令をお請けするという趣旨の書簡であります。芝多は、慶邦の「思し召し」を古代中国周王朝の創設にかかわり儒教で理想の君主の一人とされる文王に匹敵するものとしてもちあげることに余念がなかったところが目を引きますが、芝多の文書から肝心の、慶邦が音楽教育になにを期待していたかは読み取れません。学科の創設にあたって、芝多と学頭などが共有していたイメージ、すなわち音楽教育を障碍者など武士社会のなかの弱者のための授産事業にしようとする発想で行われたのでしょう。しかし、実際のところ、創設後、「楽」は養賢堂の学科のなかでふるわなかったとされます(『宮城縣史』11教育)。それにしても、注目こそされませんが養賢堂の「楽」科の設置と、藩校教育で社会的弱者の支援をおこなうという構想は、養賢堂のもう一つの「日本初」の記録に数えられるのでしょう。
なお、芝多「請書」には年号はありません。文中で蝦夷地警衛にふれていることから、仙台藩が白老(しらおい)に陣屋を構えた安政3年(1856)以降、芝多が奉行職を追われる万延1年(1860)のあいだのものと推定できます。
(宮城学院女子大学名誉教授、東北大学特任教授)