コラム:「女房の名前」―高人数帳から女性の歴史を読む―(菊地優子)

「玉造郡下野目村肝入千葉家文書」(大崎市指定文化財)中の「高人数改帳」から、写真(①~④)の一家を例にとって、家族、特に女性の歴史に注目して読んでみました。

①文政12年(1829)砂田屋敷御山守伝太郎の家族構成です。妻は亡くなり、子供は「子」と書かれた長男伝蔵16歳のほかに男子が3人、女子2人。長女さとは19歳です。

②天保3年(1832)「子」伝蔵は改名して専助になりました。聟和右衛門が家に入り、その妻は「女房22歳」と記載されています。年齢から姉のさとであることが分かります。
実は、江戸時代大半の高人数改帳には既婚女性の名前は記載されません。当主の妻であれ、父の妻であれ、息子の妻であれ、人数改帳には一律に「女房」とのみ記載されるのです。未婚のうちは「女子〇〇」と名前があるので、聟を取った女性なら昨年の改帳を見ると名前が分かるはず、と「さと」に注目してみました。

③天保6年(1835)、前年に父が死去したため専助が当主となりました。姉聟和右衛門の「女房」の欄に「しも」と、遠慮がちに名前が書き加えられています。さとは改名して「しも」となっていたのです。結婚した女性が改名する例はよく見かけます。この年初めて改帳に「女房の名前」が記載されました!世の中に何が起こったのでしょう?

④天保7年、専助は清三郎と改名し御山守を継ぎました。清三郎女房「りん」も、姉の「しも」も、人数改帳に堂々と名前が記載されています。

天保6年になぜ突然「女房の名前」が記載されるようになったのでしょうか?天保の飢饉の関係?女性の地位向上?これ以後は変わらず名前が記載されるのです。理由解明は今後への課題です。
(大崎市教育委員会文化財課文化財調査員、岩出山古文書を読む会会長)