コラム:古代・中世移行期の「寺社騒乱」(顧婕)

日本の古代から中世へと移行していく過程において、世の中に悪党などの集団が現れてきました。これらの集団は様々な騒乱や紛争を起し、社会に甚大な影響を与えました。その一つに、権門寺社による騒乱が挙げられます。その騒乱をまとめて「寺社騒乱」と言い、その用語のうちには「寺社合戦」や「強訴」などが含まれます。これについて、最も広く知られる話が『平家物語』に書かれています。「賀茂川の⽔、双六の賽、⼭法師。これぞ我が⼼にかなはぬもの。」と、⽩河上皇に⾔わしめたように、「⼭法師」と呼ばれた天台宗の衆徒による騒乱がしばしば起きました。比叡山延暦寺のほかにも、平安時代後期に世の中を乱した寺院としては、興福寺や東⼤寺なども挙げられます。
さて、これらの権門寺社は一体どのような理由で騒乱を起こしたのでしょうか。「寺社騒乱」や「強訴」とは、僧兵・神⼈等の集団が、武器・神輿・春⽇の神⽊等々を執って公家・武家に行う訴訟行為です。このような寺社の問題行為は、平安時代以来、荘園の紛争や別当更迭など、朝廷への要求によって現れた「社会現象」といえます。すなわち、権門寺社は神威を借り、朝廷に対して暴⼒的な形で様々な要求を⾏うようになっていきます。
その中でも⼤規模なものとして特筆されているのは、永久元年(1113)に延暦寺が興福寺別当の配流を要請したことを端緒とし、両寺の間で発⽣した騒乱です。史料上、興福寺・延暦寺は「南都北嶺」とも表記され、しばしば両寺間の騒乱は「南北⼤衆」の騒乱と記録されています。実際、当時の公家・藤原忠実の⽇記『殿暦』の同年4⽉ 13⽇条には「南北競発之間、公家実無術御座歟、不便之極。」という記事があり、騒乱の激しさがうかがえます。これらの「寺社騒乱」に対して、朝廷側は種々の解決方法を模索しましたが、騒乱⾃体は16世紀まで継続しました。
このように古代中世移行期に現れた「寺社騒乱」という社会現象を研究することで、同時代の社会問題の本質を把握することができるのではないかと考えています。

 

 

 

 

 

大華厳寺(東大寺)南大門(筆者撮影)は、当時寺社騒乱の現場の一つです。