コラム:人物から繋がる歴史

歴史資料保全の現場―レスキューからクリーニング、保存処置、資料のデジタル化(写真撮影)、目録作成、活用(内容分析)―で活動を続けていると、まったく別の出所の資料から同じ歴史上の人物の名前を見つけることがあります。
2、3年前、仙台藩士の蔵整理の手伝いに参加した際に、1つの扁額が発見されました(後藤三夫「史料保全の現場から―仙台藩砲術師範家に残された扁額をめぐる雑感」『史の杜』7号、2018年)。その扁額には「弘化三年六月十三日 大槻敬五郎 八寸角百討惣中九拾八内 星二十六 角七十二 十二歳」と墨書されていました。この調査現場での参加体験から、大槻敬五郎の名前が頭のどこか片隅にずっとありました。その後、たまたま読み進めていた本(吉田正志監修・源貞氏耳袋刊行会編『源貞氏耳袋』11巻、2008年、以下『耳袋』)のなかに同じ名前を見つけました。内容は「安政四年巳六月十四日 鉄炮百射命中抜群につき亀岡八幡宮へ額懸の事 定御供御薬込御小性組並御相手 大槻敬五郎」です。弘化3年(1846)時に12歳でしたから、「百射命中抜群」の時は23歳ということになります。
それから1年以上が過ぎ、史料翻刻作業中に再び同じ名前を見つけました。「安政五年御下向御道中御記録書抜」(大條家文書、山元町歴史民俗資料館所蔵)に「大槻敬五郎 定小使御薬込御鉄炮御相手」とあり、『耳袋』の1年後の史料ですので、肩書はほぼ同じでした。この史料では、藩主が仙台へ帰国途中の白河駅(文書には白川と書いてあった)付近で休憩の際にお菓子を拝領したことが記載されていました。
大槻敬五郎は、安政4年に鉄炮の腕を褒められて亀岡八幡宮に扁額が懸かり、その後江戸に登ったと思われ、翌年藩主に供奉して仙台に帰国したようです。この人物は『耳袋』に複数回名前が登場しているので、年代ごとの動きがわかってきそうです。再び彼の名前に出会うことが楽しみです。(竹内幸恵)

『史の杜』7号は、下記よりPDFをダウンロードしてご覧いただけます。
https://uehiro-tohoku.net/survey