コラム:登米地方の郷土史研究と高橋清治郎

高橋清治郎(1869~1944)は登米郡南方村(登米市南方町)の郷土史家です。彼は、小学校教員を勤めながら地域の歴史資料の書写、青島貝塚(登米市南方町)などの発掘、民俗学研究を行っています。ほかにも『南方村誌』を著し、『登米郡史』編纂資料蒐集員、『宮城県史』編纂委員を務めるなど、明治から昭和にかけて登米地方の郷土史研究を牽引した人物です。
関係資料の多くは失われてしまいましたが、書簡類や歴史資料の書写本の一部が残されています。このうち書簡類からは、歴史学者の清水東四郎、民俗学者の柳田国男、人類学者の松本彦七郎などとの応答を確認でき、内容は登米地方の歴史資料や民間伝承、遺跡に関わるものです。地域資料を介してさまざまな研究者と交流を持っていたことがうかがわれます。
また、全国的な潮流が清治郎の郷土史研究に影響を与えていることも見逃せません。民俗学では、柳田が主宰した『郷土研究』に登米地方の事例を投稿し、未刊となったものの、暦の裏面にその年の重大事象を書き記した歴史資料『暦面裡書(れきめんうらがき)』を『登米郡年代記』として出版することを持ちかけられています。
考古学では、明治42年(1909)に青島貝塚から人骨を発見、大正8年(1919)には、東北帝国大学の松本彦七郎と同貝塚を調査して人骨14体を発見しています。清治郎が注目された背景には、出土人骨の事例増加のなかで活発化していた日本人の起源を探る日本人種論がありました。人骨が出土した青島貝塚をフィールドとしていたことで、各方面から調査依頼や問い合わせが寄せられるようになっていったのです。
『登米郡史』の編纂にあたっては、所蔵資料が数多く貸し出されています。同書は、それ以降の地誌編纂事業の重要文献となっており、清治郎の郷土史研究は、登米地方の歴史像に大きな影響を与えているといえるでしょう。
郷土史というと地域の細やかな事象の研究と考えてしまいがちですが、そこには、日本国内の社会状況や学術界の動向が影響を与え、地域資料を介したさまざまな交流がありました。清治郎の研究を通じて、登米地方の郷土史研究の歩みをさらに解明していきたいと考えています。
(高橋紘 登米市歴史博物館)

              『暦面裡書』1 石森町清野家 個人蔵