コラム:「白河家文書」解読への挑戦(扇明美)

 岩出山古文書を読む会では、3つの古文書講座を開講しています。それは広く一般の人達に古文書に触れる機会を作り、古文書を読み解く面白さを味わって貰おうという趣旨からです。その事は古文書を通して地域の歴史に興味を抱き、地域の文化財保護の観点にも繋がると考えるからです。
 私はその一つの火曜講座に参加しています。この講座では荒武賢一朗先生のご指導を受けながら、白河家(北氏)が所蔵している古文書の中の一つである「本山銅山記録」を解読しています。これは大崎市鳴子温泉本山にあった銅山開発に携わった白河家(北氏)の一大プロジェクトの記録です。この銅山は慶長年間(1596~1615)に仙台藩の御用鉱山として一時期銅産出の隆盛があった所でした。文化・文政年間(1804~1830)、銅山開発をマネジメントし、仙台藩の財政に尽力することで、一門白河氏の分家筋であった白河家(北氏)のお家再興をも願った文化12年(1815)の記録です。
 白河家は結城朝光の流れを汲む一族で、子の朝広代奥州合戦の恩賞として奥州の白河郡を与えられ、子の祐広がこの地に入部し白河結城氏を起こしたのが始まりです。その後義親時代、慶長6年(1601)に伊達政宗に抱えられ、その子孫は仙台藩の一門に列せられました。
 白河家(北氏)は義親の子義綱(実父は義名)の次男朝景を祖とし、朝景は伊達忠宗より360石を賜り祖父義名の家を継承しました。しかし朝次の代に故あって改易となり、朝定代に伊達吉村の内意によって、一門白河家より下真山村(現・大崎市岩出山)に分地を受けて家を再興しますが、名は白河ではなく北氏を名乗りました。この銅山記録にはこうしたお家再興の宿願を、銅山開発に懸けた白河家(北氏)二代(直次、景秀)の思いが、「拙者(景秀)迄四代御奉公も不仕在郷居住仕、当番計相勤、聊之御用ニも相立不申儀ハ、多年気毒至極」と表現されています。本史料の解読を先生や会員の仲間と学べる古文書講座は、何にも代え難いものだと感じながら受講する日々です。(岩出山古文書を読む会・会員)

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真1)「本山銅山記録」

 

 

 

 

 

 

(写真2)岩出山古文書を読む会・火曜講座風景