コラム:裁判をするのも命がけ、な中世(石川光年)

 私の専攻は日本中世の法や裁判についての研究です。というと大変難しそうな研究分野で(実際難しいのですが)、なぜそんな研究をやっているのだ、と言われてしまいそうです。ただ、史料を読んでみると中世の人々も、勝訴のためにさまざまな努力を積み重ねていたことがわかります。
 まず、時間的・経済的な負担が大きくかかります。裁判を行うのは、多くが鎌倉や京都などの幕府・朝廷あるいは寺社なので、原告・被告らは必要に応じて地方からわざわざ出向かなければなりません。交通費や宿泊費も莫大です。さらには、裁判を有利に進めるために、訴訟担当の役人をもてなすなどの交際費(つまりはワイロ)もかかりました。裁判に時間とカネがかかるのは現代でも同じですが、中世ではそのかけ方が大きく違います。
 また次のような事例があります。石塚寂然という者が、鎌倉幕府御家人の深堀氏とトラブルを起こし裁判沙汰になりました。領主が京都の仁和寺であったため、はるばる京都まで出向いた寂然は、路上で「お前がどこに宿をとっているのか、こっちは知ってんだぞ」と怪しい男にいきなり脅されます。その男が「高名の悪党殺害人」であると気づいた寂然は逃げ出しますが、一人、また一人と悪党たちに追いかけられ、悪党らは寂然を殺そうと隙をうかがっていました。命の危険を感じた寂然は、すんでのところで知人の家に逃げ込むことに成功しますが、おそらくこの悪党らは寂然の訴訟相手であった深堀氏の手の者でしょう。中世では、裁判沙汰になると時には命の危険にさらされることがあったのです。寂然には申し訳ないですが、このような裁判にすべてをかける者の生の声が聞こえるのは、研究をやっていて面白いなと感じる瞬間です。(東北大学大学院文学研究科)