コラム:大河原町、石碑から見える消えた小字名(遠藤慎一)

伊達治家記録の中に、仙台伊達家第4代綱村公(万治2・1659年生まれ、享保4・1719年没)が参勤交代帰城の折、大河原宿に連泊し近所の「泉崎」に癒しのために散歩したという記録があります。
伊達治家記録の綱村公の項を全て調べてみると、参勤交代時に途中の宿に連泊するのは他に見受けられないし、ましてや帰城中に癒しのためにわざわざ時間をとって散歩をするというのも、この時が初めてのことでした。いったい何があったのでしょうか。
また大河原町の泉崎という地名は、現在は存在しません。伊達治家記録の解説をした平重道氏は「泉崎の地名は晴宗公采地下賜録には見えるが、江戸時代の小字名には見出しかねた」と記述しています。それでは「泉崎」はいったいどこを指すのでしょうか。以下の項目を調べてみました。

〇伊達治家記録
 元禄15年(1702)6月4日の項
 「六月四日乙酉
  今日大河原駅御逗留 酉上刻御慰トシテ大河原近所ヘ御歩行泉崎ニ少間御座シ戌上刻(注・午後7時ごろ)御帰リ」
〇平重道氏の解説によると(『伊達治家記録』P143)
 「泉崎は柴田郡内の地名で『晴宗公采地下賜録』に見えるが、江戸時代の小字名には見出し兼ねた。大河原からそう遠くないところと思われ、恐らく現在の大河原町内であろう」とある。
〇『大河原町史 諸史編P659』には
 「元禄十五年六月三日、綱村お国入りの際には大河原に二泊、四日には泉崎に散歩されているが、このころ沼がまだ残っていたのであろう」とある。
〇『大河原町史 諸史編P1419』には
 「石碑八乙女 〇小牛田山神碑 〇子安観音碑 文久二戌(1862)八月吉日(泉崎橋本女人講中)」
〇『大河原町史 諸史編P1287』には
 「弁財天堂 沼の項末文に、弁財天は沼にそそぐ泉の上のほうに立っている。沼は江戸時代の名所で伊達綱村も大河原泊の節たち寄っている」とある。
〇『大河原町史 通史編P367』には
 第25図陸前国柴田郡大河原村図には今の橋本地区に「泉崎山」と記述されている。
〇『大河原町史 通史編P372』には
 「大河原村の山 泉崎山(小山田、福田、大河原三か村境)、天神山(小山田村境)」とある。

この様なことから「泉崎」は当町橋本地区に存在していたようです。現在の住所でいうと橋本字袖谷地、字八乙女、字沼と考えられます。その西背後地に「泉崎山」がそびえていると考えて間違いないでしょう。
現在この地には、町内最大の「弁財天」の石碑があり、「聖徳太子堂」があります。また「古峰神社境内の古碑群」、「小牛田山神堂の古碑群」、集落入り口には複数基の「馬頭観音碑群」があります。
これだけでは「癒しの地域」とは言い難いですが、沼を囲み何か風光明媚な風景が広がっていたのかもしれません。これを調べるのは今後の課題としたい。(大河原郷土史愛好者)

 

 

 

 

 

 

 

(写真1)子安観音(高さ67㎝、幅38㎝) 文久2(1862)戌8月吉日 泉崎橋本女講中

 

 

 

 

 

 

(写真2)大河原町橋本沼地区