コラム:『鹿島台町史』を繙きながら大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しむ(佐々木光秋)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映を楽しみにしています。その内容に触発され、「鎌倉殿」が中世東北の歴史へ及ぼした影響について、長年住み暮らしてきた大崎市鹿島台の地域史のなかで紹介したいと思います。
少し時代が遡りますが、『鹿島台町史』(1994年)の「原始・古代」のなかの「長世保(ながせほ)と郷土」という項目からみていきます。当時、陸奥国の豪族安倍頼時は強大な勢力を張り、これを国司は制することができずにいましたが、永承6年(1051)陸奥守となった源頼義が任地に下り、出羽の豪族清原氏の力を借りて、安倍氏を滅ぼしました。「前九年合戦」(1051~62)といわれる戦いで、慈明寺(現大崎市鹿島台木間塚)の北方にあった古館、その付近の小台館、小屋館の3つの館は、源頼義が死闘をくりひろげた戦場でした。「木間塚」の地名の由来は、戦死者を木の間に埋め、塚としたことによると伝えられ、鳴瀬川を挟んで旧鹿島台町と旧南郷町(現遠田郡美里町木間塚)にその地名が残っています。
その後、陸奥・出羽国では清原氏の勢力が強大となりましたが、清原氏一族の内紛を契機とする「後三年合戦」(1083~87)が起きました。この内紛を平定した陸奥守・源義家に従った藤原(清原)清衡が、陸奥国を支配し、以後3代、およそ100年にわたって治めました。この頃に鹿島台付近は「長世保」と呼ばれるようになります。文治5年(1189)源頼朝によって奥州藤原氏は滅ぼされます。この奥州合戦において軍功をあげ、頼朝の信頼をえた常陸国伊佐庄の御家人・藤原念西が、近世仙台藩主伊達氏の祖である伊達朝宗です。この軍功により伊達郡(福島県北部)と「長世保」を与えられ、伊達氏を名乗り、「長世保」は朝宗の子息・為宗が地頭職を継ぎました。このほか奥州合戦で戦功をあげた多くの関東武士が奥州に所領を与えられています。
頼朝亡き後、残された者たちがドラマで引き起こす「権謀術数」を楽しみながら、同時期の鹿島台地域の歴史の理解をさらに深めたいと思っています。
(南郷古文書を読む会、岩出山古文書を読む会、鹿島台歴史研究会)