コラム:幕末の若松城下と火災―文久元年の大火と絵図―(渡邉歩)
福島県立博物館で学芸員を務めております、渡邉と申します。近年災害について考える機会が多くなっていますが、江戸時代の会津地域にも、たくさんの災害の記録が残っています。特に火災の記録は多く残っており、時には1000軒を超える大きな被害がありました。
若松の城下町で起きた火災について伝える記録の1つが、「文久元年三月並六月の若松大火絵図」です。文久元年(1861)の3月と6月に発生した火災による被害範囲が、絵図に記録されています。6月は家老である横山主税の屋敷から出火し、かなり広範囲に被害が及んでいる様子がわかります。松平容保の小姓を務めた浅羽忠之助が記した日記である「古今雑誌」によると、強風により、この火災による被害は1186軒に及びました。
藩の編纂した歴史書である「家世実紀」には火災予防や火元の家に対する罰則など、様々な規定が定められています。特に放火の罪は重く火あぶりの刑が定められ、誤って火災を起こしてしまった人も、火災の被害によっては屋敷の没収がされるなど、厳しい罰が定められました。
当時江戸に住んでいた横山主税から、会津の屋敷へ住む姉へあてた手紙の写しが残っています。そこには姉を気遣う言葉が多く、大勢の人に迷惑をかけてしまった申し訳なさや、処罰への不安を姉が感じていることが推測されます。
さらに手紙の中では、当時江戸にいた横山が、土蔵後ろの小屋から出火している点など、火元が怪しいことを気にかける様子が見られます。この時点では放火が疑われていたのかもしれません。のちに松平家の家政顧問も務めた藤沢正啓は、幼いころに体験したこの火災の記憶を頼りに、横山の叔父がハチの巣を焼こうとしたことが出火の原因であると述べています。横山や会津に住む姉たちが最終的に処罰が与えられたかどうかはわかっていませんが、横山はその後松平容保が京都守護職へ任じられた際も容保に従い京都へ向かうなど、重役を担い続けています。(福島県立博物館学芸員)
「文久元年三月並六月の若松大火絵図」福島県立博物館蔵
